モーツァルトのピアノ・ソナタ第1番とグレン・グールドのアプローチ

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第1番 ハ長調 K.279(189d)をご紹介します。演奏はグレン・グールドです。モーツァルトが18歳のときに作曲した最初のピアノソナタです。


この作品は1774年、モーツァルトがザルツブルク宮廷で働いていた時期に作曲されました。当時、ピアノが家庭に普及し始めており、モーツァルトは初心者からプロの演奏者まで幅広い層が楽しめる作品を意識して作曲しました。

モーツァルトのピアノ・ソナタは18曲現存しており、K.279はその中でも比較的初心者に演奏しやすいとされています。”K.279″はモーツァルトの作品目録を編纂したケッヘル(Köchel)による整理番号であり、”189d”は後に付け加えられた補足番号です。


モーツァルト(1756年–1791年)が生きた時代は、啓蒙思想が隆盛を極めた時代でした。
理性、科学、個人の自由を重んじる思想が広まり、教会の支配が弱まりつつありました。それに伴い、世俗的な価値観が強まりました。
この時代、芸術は「人間の感情」や「美的な調和」を追求する方向へ進化していました。

音楽の世界では、壮麗で複雑な音楽様式のバロック音楽から、形式美と均整の取れた音楽様式の古典派音楽への移行期にありました。宮廷や貴族の支援で育まれた音楽が、次第に市民社会へと浸透していく過程でもありました。

バッハ(1685–1750)の晩年がバロック音楽の終焉を象徴しています。一方、モーツァルトと同時期に活動したハイドン(1732–1809)は古典派音楽の発展に寄与しました。また、ベートーヴェン(1770–1827)はモーツァルトの影響を受けつつ、ロマン派音楽への橋渡し役を果たしました。


モーツァルトが生まれたザルツブルクは、当時神聖ローマ帝国の一部でした。この帝国は現在のドイツ、オーストリア、チェコなどにまたがる多民族・多文化の地域でした。

当時の音楽家は、主に貴族や宮廷、教会に仕える職人と見なされていました。モーツァルトもその中で活動していましたが、彼の父レオポルト・モーツァルトはザルツブルク宮廷で宮廷音楽家を務めていました。モーツァルト自身も幼少期から貴族や王族の支援を受けていましたが、後年は音楽家としての独立を目指し苦労しました。

モーツァルトの生誕年(1756年)は七年戦争の勃発年でもあります。オーストリアでは啓蒙専制君主マリア・テレジア(在位: 1740–1780)やその子ヨーゼフ2世(在位: 1780–1790)が治世を握り、社会改革や文化振興が進んでいました。

ザルツブルクで宮廷音楽家として仕えることに不満を抱いたモーツァルトは、より大きな舞台を求めてウィーンなどに移住しました。当時のウィーンはヨーロッパの音楽の中心地でした。ハプスブルク家の宮廷があり、貴族や上流市民の文化的需要が非常に高かったのです。ウィーンでは「サロン文化」が花開き、音楽家が新しいパトロンを得る機会も多くありました。

また、モーツァルトはヨーロッパ各地を旅して各地の音楽文化に触れました。イタリアではオペラ文化が栄え、フランスでは革命前夜の混乱期でありながら宮廷音楽が繁栄していました。一方、イギリスでは市民文化が発展し、音楽市場が広がりを見せていました。


当時の音楽家は貴族に仕える職人と見なされていましたが、モーツァルトは音楽家としての独立性を追求しました。彼の生涯は、音楽家が職人から芸術家としての地位を確立する過渡期に位置づけられます。


グレン・グールド(Glenn Gould, 1932–1982)は、20世紀を代表するカナダ出身のピアニストであり、その特異な解釈と演奏スタイルでクラシック音楽界に大きな影響を与えました。モーツァルトにも独特のアプローチを持ち、その解釈が賛否を呼ぶことも多々ありました。

彼の演奏は極めて緻密でクリーンなことが特徴です。音符の一つ一つが明確で、楽曲の構造が透けて見えるような解釈を行います。また、速いテンポや異例の解釈で知られ、作品に新たな視点を与えることが多いです。鍵盤に「触れる」ような音の作り方が特徴で、特に弱音部分でその繊細さが際立ちます。

グールドの演奏姿勢は非常に特徴的で、自作の低い椅子を使用し、鍵盤に深く身を寄せるように弾きました。また、演奏中にしばしば口ずさむため、録音に微かな声が残ることも多く、これも彼のトレードマークの一つです。

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